人とは逆のことをやる
読売新聞より引用
誰もやらないことをやる。
他の人とは逆のことをやる。
そんな性分が、世界をアッと
驚かせる発明につながった。
鮮やかな青色に輝く発光ダイオード(LED)。
「青いバラ」と同じように、
長年「不可能」の代名詞だった。
それが今では、電光掲示板から
信号機まで、あらゆる所に使われている。
赤、緑、青の光の三原色のLDEがそろい、
どんな色でも出せるようになった。
中村は徳島大大学院を修了した1979年、
化学メーカー「日亜化学工業」に入社。
赤色LEDの材料のガリウム燐や
ガリウムヒ素といった半導体の開発を担当。
参考文献を読むと、「難しい」「不可能」
といった文字が目に入る。
青色LEDのことだ。
そのたびにいつか必ず
開発してみせる、と心に誓った。
LEDは、半導体が電気エネルギーを
光に交換することで輝く。
熱を出さないため電球や蛍光灯より
省エネになり、寿命も長い。
半導体の結晶に寄って色が変わり、
結晶に含まれる欠陥が少ないほどよく光る。
「青色LEDを作らせてほしい」。
88年、当時の社長に直談判した。
断られるかと思いきや、
意外にも「ほな、やれ」との返事。
勉強と情報収集のための1年間の米国留学や、
薄い結晶の膜を作る高価な装置(約2億円)
の購入も許可してくれた。
89年4月から開発を始めた。
青色LEDの材料としては当時、
セレン化亜鉛と窒素ガリウム
が有力候補だった。
セレン化亜鉛の方が圧倒的に
現実に近いとされていたが、
「誰もやらないことにこそ可能性がある」と、
あえて窒素ガリウムを選択した。
さっそく窒素ガリウムの結晶膜の
製造に取り組むが、うまくいかない。
午前中に装置を改造し、
午後に結晶膜を作ってみる。失敗。
翌日も装置を改造し、
結晶膜を作る。また失敗。
その繰り返しが何百回と続いた。
中村に機転が訪れたのは90年2月。
高温の装置の中に材料を
ガス状にして吹き込むが、
熱による対流で材料のガスが舞い上がって、
きれいな結晶ができないことに気がついた。
「この対流を抑えてやればいい」。
そう考えて、装置の横から
材料のガスを流すと同時に、
上から対流を防ぐための
別のガスを吹き付ける
「ツーフロー(二つの流れ)」方式を開発。
これでようやく、うまく結晶が
できるようになった。
さらに1年間の試行錯誤の末、
91年1月、きれいな窒素ガリウムの
結晶膜を作ることに成功した。
ちょうど昼休みを知らせる
サイレンが鳴っていた。
中村は「弁当のおかずはなんだろう」
と思いながら、結晶膜のデータをすると、
結晶膜の欠陥の少なさを示す
「ホール移動度」という数値が200を超えた。
当時の世界最高は90。
「何かの間違いじゃないか」。
夢中で再測定した。
やはり200を上回り、青色LEDに必要な
窒素ガリウムの結晶膜が手に入った。
その後、青色LEDの試作品を製造。
最初は数時間と短かった発光時間が、
改良を重ねた結果、1000時間まで延びた。
93年初め、実用レベルの青色LEDが完成した。
カリフォルニアの青い空と青い海。
日亜化学を退職した中村が
2000年に構えた研究室は、
そんな美しい青色に包まれている。
特許とその対価を巡る
同社との訴訟もあったが、
この恵まれた環境にいれば、
そんなことは忘れて
研究に打ち込めるという。
今年7月には、高出力の面発光レーザーの
開発に世界で初めて成功し、
記者発表をした。
もうとっくに次のステージに進んでいる。
徳島に空路で向かい
レンタカーに乗り換えて
南のサーフポイント
海部・宍喰・生見に向かう途中
阿南市に「日亜化学」の
デッカイ工場はある。
中村氏のことを思い出す。